あなたに、名前をつけてあげる


 『どうか、良き名を――』




                mama




 何かに呼ばれる声に引かれるように、次第に意識が確かなものになってゆく。
「ナタク、ナタク」
 どうやら実際に呼ばれていたらしい。目を開けると、知っているようで知らないような顔が覗き込んでいる。煩わしそうに一度目を伏せ、そして再び目を開ける。
「起きたかい? ようこそ、私の洞府へ」
 黒い髪を揺らして、その仙人はナタクに向かって柔らかく微笑んだ。
「……誰だ」
「太乙真人。君の、まあ、師匠だね」
「弟子入りした覚えはない」
「まあまあ。ゆっくり話そうよ」
 宝貝を身に付けて生まれてきた赤子。父に気味悪がられ、周りの人間に怖れられ、ただ母一人に愛されて育てられた宝貝人間。
 愛をかけてくれた母に迷惑が掛かる前に、その母の目の前で自殺してみせた、宝貝人間。
 名を、ナタク。母が愛しさを込めて何度も呼んだ、その名。
「ナタク」
 太乙と名乗った仙人がナタクを呼ぶ声に、呼ばれた方はゆっくりまばたきすることで応えた。
「ねえナタク。まだ、君の身体は動かないかもしれない。でも意識も記憶も、はっきりしているだろう?」
「ああ……オレは、死んだんじゃ、なかったのか……?」
 身体は、動かない。神経が切れてしまったみたいに、どこにも力が入らない。柔らかなところに寝かされているような、浮かんでいるような、奇妙な感覚。いや、感覚がない感覚。目を閉じた暗闇の方が身近に思える。
 そう、確か、竜王の怒りに触れてしまい、母に累が及ぶ前に。
 生まれつき備わっていた宝貝で、自分の頭を、打ち砕いた。
 その時、ナタクの生涯は終るはずだった。
 けれど。今、目を開ければ仙人が彼に微笑みかけ、その頭上にははるか高く青空が広がり、吹きぬける風のすがすがしさ、地下を流れる水の涼しさまで全身で感じられる。
「核を壊さない限り、君は死なないよ。今は、蓮の花に魂魄を宿して身体を作ってある」
「そうか……」
「ナタク。ねえナタク」
 太乙が呼ぶ声。そして、幼い頬に、大きな手の感触。そうっと、慈しむように、やさしく撫でる。何かを思い出させるように。
「私が君にあげた力は、あんなふうに使うものじゃないんだけどねぇ…」
「キサマに何かもらった覚えはない」
「そうかい? でも、そうなんだよ」
「…………」
 もらったもの。母からの愛。父からの嫌悪。母からの愛。愛。母がつけてくれた名前。帰る家。母の愛。そして、三つの宝貝
「さて。意識が――魂が宿ったのは確認できたから、もう一眠りするかい?」
 返事をする前に、太乙の手がふわりとナタクの眼前にかざされ、そして、ゆっくりと、覚醒したばかりの意識が落ちてゆく。
「おやすみ、ナタク」




◇◆◇◆




「お腹の子に、命を、下さるのね…?」
 己の宿命を悟ったかのように、李靖の妻は、穏やかな表情をした。
 長男も、次男も、若くして仙人界へ上ってしまった。
 ようやく授かった新しい命は、十月十日を過ぎても生まれる気配がなく、医者は首を捻るばかりだった。
 夢に現れた黒衣の仙人は、不思議な珠を彼女に授けた。途端、お腹に、はっきりと命の鼓動を感じた。
「……きっと、この子も、お兄ちゃんたちに倣うのね…」
 寂しさがなかったわけではないけれど。それでも。
「ありがとう…嬉しい、嬉しいわ。早く生まれておいでなさい」
 涙を浮かべて、大きなお腹を、労わるように撫でる。
 その手のひらにまで鼓動を感じるようで、命を授かった母にしかできない笑みを浮かべた。
「李夫人」
「ええ、何かしら」
「あなたの御子は大変な命数を背負っております」
「ええ、ええ。分かるわ。母ですもの」
「どうか、その御子に、良き名を授けてやってください」
「もちろん」
 仙人は、安堵したように表情を緩めて、礼を拝してから静かに姿を消した。
「そうね、この世に二つとない、あなただけの名を、あげるわ」




 世界を構成する、かけがえのない、必要不可欠なものの名前を子供に授けようと思った。世を包み、守る、おおらかな木。強く、美しい、澄んだ金。そういったような。
 けれど、新しく授かった命は、今までの世界にはない存在だと感じたから。
 五行のどれにも属さない、何者でもない、誰にもはかり知ることの出来ない、そんな名しかないと思った。
 だから。
「……ナタク。ええ、ナタクがいいわ。ねえナタク。そう思うでしょう?」
 生まれながらに宝貝を身に付けて元気に泣き叫ぶ我が子に、母は、そう笑いかけた。




◇◆◇◆




 なにかが似ている、と思ったのはナタクには不覚だった。
 太乙真人が彼を呼ぶ声に、何故か、何度となく、あたたかな記憶を刺激される。
 母の声はもっと高く澄んでいて、楽器が鳴るようだったのに。
「ナタク! もう、ラボで暴れちゃダメだって言ってるじゃないか!」
 こんなふうに、むくれながら抗議する男の声とは似ても似つかないはずなのに。
「聞いてるの? このへんの計器が壊れちゃったら、君の修理にだって影響出るんだからねっ」
「知るか。これくらいで壊れるのが悪い」
「精密機器なんだよ!? ねえちょっとナタク!」
 怒っているくせに、どこか、あたたかい。
 そんな感覚の正体が分からなくて、イライラする。
「うるさい。お前、オレの、何なんだ」
「え?」
 激しい攻撃がくるものとばかり思って防御体勢に入っていた太乙が、一瞬、動きを止める。
「お前はオレの親じゃない。お前に弟子入りした覚えもない」
「……じゃあ君は、私のこと、何だと思う? きっとそれが君の問いの答だ」
 首をかしげて、ナタクの目を見つめながら、太乙が問う。
「君にとって、私は何? まったくの赤の他人かい?」
 怪我した君をなおせるのは私だけなんだけどね、その宝貝のメンテもね、と呟く。
「ねえ、ナタク」
 また名前を呼ばれて、また心臓がどきりとする。いや、心臓ではなくて、目の前に居る男が作ったという宝貝、霊珠が。どうしようもなく、響く。
 そして、胸に響く母の声と、重なる。
「君の母君は、李夫人の殷氏だよ。父君は李靖だね」
 いつのまにか、太乙がすぐ傍にきて、語りかけている。母のようにやさしく、あたたかな瞳で。
「でも、君の霊珠は、私が千年かけて命を吹き込んだものだ」
 心臓でもないくせに、蓮でできた身体の真ん中で、脈打つものがある。
「ナタク、ねえ、私は、君の母ではない母に、父ではない父になりたいと思うよ」
「……意味が、分からない」
「きっと、いつか分かるさ」
 そう言って、太乙はナタクの頬を撫でた。
「君のことを、誰より、愛してる」
 そして、幼いくせに筋肉質な身体を、包み込むように抱きしめた。
 確かにそれは、ナタクが幼い頃に母から受けた抱擁と同じ、あたたかくて、やわらかで、まどろんでしまうくらいの何かを感じるものだったから。
『ナタク。愛してるわ』
 母にされたときと同じく、何も言わず、ただ頷くだけだった。